257: 胎児ヘモグロビン(Fetal Hemoglobin)

著者: Candice Craig, Samantha Eng, Jenna Manzo, Andrew Tkacenko, David S. Goodsell, Stephen K. Burley 翻訳: 工藤 高裕(PDBj)

この記事は、2021年1月に定量生物医学ラトガース研究所(Rutgers Institute for Quantitative Biomedicine)の主催で開催された1週間の集中合宿「生物医学における科学コミュニケーション」(Science Communication in Biology and Medicine)の一環で、キャンディス・クレイグ(Candice Craig)、サマンサ・イング(Samantha Eng)、ジェナ・マンソ(Jenna Manzo)、アンドリュー・チカセンコ(Andrew Tkacenko)により執筆され、描かれたものです。

酸素を共有する

胎児ヘモグロビン(左、PDBエントリー 1fdh)と大人のヘモグロビン(右、PDBエントリー 4hhb)。α鎖はピンクで、γ鎖はオレンジで、β鎖は黄で、ヘムは赤で示す。
胎児ヘモグロビン(左、PDBエントリー 1fdh)と大人のヘモグロビン(右、PDBエントリー 4hhb)。α鎖はピンクで、γ鎖はオレンジで、β鎖は黄で、ヘムは赤で示す。 高解像度TIFF画像はこちら

成長している胎児は酸素や必要な栄養分をその母親から得ているが、ここにはある特有の課題がある。それは、母体の血液から胎児に酸素を供給する特別なしくみが必要ということである。それがないと、胎児は適切な発達に必要となる十分な酸素を受け取ることができないからである。幸い、胎児はこれに対処する手段を備えている。それが胎児ヘモグロビン(fetal hemoglobin)だ!これはヒトの胎児が持つ赤血球の主要な酸素輸送タンパク質であり、母体にあるヘモグロビンとのわずかな違いによって、母体から胎児へと効率的に酸素が交換できるようにしている。

不可欠な効率的交換

胎児ヘモグロビンは避けられないジレンマを解決してくれる。どうやってヘモグロビン分子から別のヘモグロビン分子に酸素を渡せばいいのだろうか? 胎児ヘモグロビンは、正常で健康的な条件下で大人のヘモグロビンよりも高い酸素親和性を持つことによりこの離れ業を成し遂げている。妊娠中、母体のヘモグロビンは酸素を放出し、その酸素は胎盤を通って胎児ヘモグロビンに取り込まれる。胎児ヘモグロビンは妊娠の最後3分の2の期間には優位を占めているが、生まれて1年経つまでに身体でつくられるヘモグロビンは大人型となり胎児ヘモグロビンはほとんどつくられなくなる。

2つのサブユニットによる一つの大きな違い

ヘモグロビンは胎児型も大人型も4つのサブユニットで構成されている。どちらも2つのαアルファサブユニットを持っているが、大人のヘモグロビンでは2つのβベータサブユニットとなっている部分が、胎児ヘモグロビンでは2つのγガンマサブユニットに置き換わっている(ここではPDBエントリー 4hhb1fdh の構造を示す)。このγサブユニットによって胎児ヘモグロビンの酸素親和性が向上している。赤血球と胎盤の細胞は2,3-BPG(2,3-ビスホスホグリセリン酸、2,3-bisphosphoglycerate)と呼ばれる小さな有機リン分子をつくる。2,3-BPGは成人のヘモグロビンに結合して酸素への親和性を下げるが、胎児ヘモグロビンにはあまり強く結合しない。そのため、2,3-BPGによって成人のヘモグロビンからは酸素が遊離し、胎児ヘモグロビンが酸素をとらえられるようになる。酸素親和性に関するこの違いによって、酸素が母体から胎児へと渡されているのである。

鎌形赤血球貧血症に対する一つの解決策になる?

胎児ヘモグロビン遺伝子の転写調整領域から得られたDNS断片に結合したサイレンサータンパク質BCL11Aを、2つの角度から見た様子(PDBエントリー 6ki6)。
胎児ヘモグロビン遺伝子の転写調整領域から得られたDNS断片に結合したサイレンサータンパク質BCL11Aを、2つの角度から見た様子(PDBエントリー 6ki6)。 高解像度TIFF画像はこちら

胎児ヘモグロビンが鎌形赤血球貧血症(sickle cell disease)の治療にも使えないか試験されている。この病気は、βサブユニットの変異によって起きるもので、ヘモグロビンが線維をつくり赤血球細胞が異常な鎌形になってしまう不具合を引き起こす。胎児ヘモグロビンはβサブユニットを持っていないので、この病気を起こす変異を持つこともない。そのため、鎌形赤血球遺伝子を持つ幼児は鎌形赤血球貧血症の症状が出ない。それは彼らがつくるヘモグロビンのほとんどは胎児ヘモグロビンだからである。しかし、子供が成長するにつれヘモグロビンが大人型に入れ替わると問題が出始める。

遺伝性高胎児ヘモグロビン血症(hereditary persistence of fetal hemoglobin)という稀な遺伝的条件を持った人々を調べることにより治療方法の候補が見つかった。彼らは大人になっても通常よりも高い濃度の胎児ヘモグロビンを持ち、鎌形赤血球の変異も持っているが、症状は重くはない。研究の結果、血中ヘモグロビンの約20%が胎児ヘモグロビンであれば鎌形赤血球貧血症の症状を抑えるのに十分であることがわかっている。それを踏まえ、鎌形赤血球の変異を持つ人々に対して胎児ヘモグロビンの濃度を増やす遺伝子治療が行われている。その治療では、胎児ヘモグロビン遺伝子のサイレンサー(遺伝子の制御部位に結合して発現を抑制するタンパク質)BCL11A(PDBエントリー6ki6)の働きが抑えられる。これにより胎児ヘモグロビンがつくられ、鎌形赤血球貧血症の症状が改善したことが示されている。

構造をみる

私には2,3-BPGが少ないよ、母さん

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酸素がないと、2,3-BPGは成人ヘモグロビンにあるβサブユニットの窪みにぴったりとはまり、負の電気を帯びたリン酸と、正の電気を帯びたアミノ酸(紫で示す部分)との間で相互作用する。逆に、胎児ヘモグロビンのγ鎖(図右側、PDBエントリー 1fdh)では、2,3-BPGと相互作用する上で必要となる重要な場所に別のアミノ酸(ミントグリーンで示す部分)がある。さらに、これらのアミノ酸が入れ替わったことで、正の電気を帯びたアミノ酸同士の距離が遠くなり過ぎ、2,3-BPGと結合できなくなる。これらの違いによって、2,3-BPGは胎児ヘモグロビンよりも大人のヘモグロビンにより強く結合し働きを抑制する。2,3-BPGの濃度が高い胎盤において、胎児ヘモグロビンは大人のヘモグロビンよりも強く酸素と結合することができる。これらの構造をより詳しくみるため、図の下のボタンをクリックして対話的操作のできる画像に切り替えてみて欲しい。

理解を深めるためのトピックス

  1. 酵素の2,3-ビスホスホグリセリン酸ムターゼ(2,3-bisphosphoglycerate mutase)は2,3-BPGをつくります。PDBにはさまざまな反応段階をとらえたこの酵素の構造が登録されています。例えばPDBエントリー 2h4z を見てみてください。
  2. ヘモグロビンは2,3-BPG以外にもさまざまな方法を使ってしっかり制御されています。例えば、今月の分子の記事 S-ニトロシル化ヘモグロビン(S-nitrosylated hemoglobin)を見てみてください。

参考文献

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この記事はRCSB PDBPDB-101で提供されている「Molecule of the Month」の2021年5月の記事を日本語に訳したものです。転載・引用については利用規約をご覧ください。

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